AGI以後の物語 ──「欠落なき社会」とドラマの終焉

人類は長いあいだ、争いの物語を信じてきた。
だが、心が静かに響きあう物語こそ、次の扉を開く鍵なのかもしれない。

記事要約

AGIが社会を最適化し、貧困や不平等が解消されると、物語の原動力だった「欠落」や「衝突」が失われ、従来のドラマが成立しにくくなる。悪や格差、恋愛の障害も描きにくくなり、物語は共鳴や静かな揺らぎへと様式を変える必要がある。描けないのは未来ではなく、平和を物語にする力が未成熟な“今の私たち”なのだ。物語は終わらず、新たな形で再生する。

AGI(汎用人工知能)が社会インフラの中核を担う日が目前に迫る中、私はある奇妙な“物語の欠落”に気づいた。
それは、「AGIがすでに社会に浸透し、人類を平和に支える世界」を真正面から描いた映画作品が、ほとんど存在しないという事実である。

SF作品の多くがAGIを『マトリックス』の機械や、『ターミネーター』のスカイネットのように「敵」として描き、人類との対立・暴走・管理社会・破滅といったテーマに依存している。『アイロボット』『エクス・マキナ』もまたその系譜にある。

だが逆に、AGIによって飢えや貧困、病気、暴力といった問題が解決され、人類が調和の中で暮らす“ユートピア的な未来”を主題にした物語は、ほとんど見当たらないのだ。

なぜだろう。もしかすると、その未来が“物語になりにくい”からではないか?
それはつまり、“平和な未来を描けない”という事実そのものが、私たちの想像力が、ある種の限界──あるいは、危機や欠落に惹かれる心の癖に囚われていることの、静かな証なのかもしれない。

物語が“燃料”を失うとき

物語は「欠落」から生まれる

物語とは、多くの場合、「欠落」や「欲望」によって駆動される。
借金、病気、差別、争い──こうした欠如や葛藤こそが、登場人物を動かし、観客の共感や緊張を生み出してきた。

たとえば『ジョーカー』では、社会から見放された男が暴力に走り、
『クレイマー・クレイマー』では、父親が生活と親権を守るために闘い、
『タイタニック』では、貧富の差が恋愛の障害として描かれた。

物語の多くは、「何かが足りない」状態を必要としていた。
登場人物たちは、それを手に入れるために旅に出たり、ぶつかり合ったり──ときに、絶望する。

欠けているものは、物質的なものとは限らない。
愛、承認、尊厳、自分の居場所──そうした内面的な欠落もまた、物語の火種になってきた。

欠けたものがあるからこそ、ドラマが生まれ、そこに人は共感を抱く。
これはほとんど、物語という形式における“物理法則”のようなものだった。

AGIが満たす世界に、欠落はあるか?

ではもし、物語の前提となる「欠落」が世界から消えつつあるとしたら──?
それは、物語そのものの存立基盤が静かに変化していることを意味するのではないか。

たとえば、AGI(汎用人工知能)がすでに社会の深部に入り込み、経済、医療、行政、教育、司法といったシステムの中で、私たちが思いつきもしない速度と精度で判断と調整を行っていたらどうなるか。

人間の偏見や怠慢、知識不足によって引き起こされていた不公平や不効率は、徐々に最適化されていく。
食料は無駄に破棄されず、家は空き家でなく必要な人の元へ届けられる。
医療は予防の段階で施され、教育は個人に最も合った形で提供される。
仕事は人間に苦痛を与えず、適性と希望に応じて再設計される。
人間の感情的な判断ミスが多かった政治や法も、冷静な基準と過去事例の網羅的解析によって、より公正になる。

こうしたAGIの支援によって、「生きていくことそのものが困難である」という状態は、少しずつ減っていく。
すべてが完璧になるわけではないにせよ、「この世界に生まれた時点ですでに負けている」という絶望感や、「頑張ってもどうにもならない」という不条理さが、システムレベルで緩和されるようになる。

そうなると、これまで物語を突き動かしていた「欠落」や「格差」は、物語の核として成立しにくくなっていく。

登場人物が「住む場所がない」「病院に行けない」「夢を追いたいけど生活が苦しい」といった困難を抱えていないとしたら、私たちは何を見て共感し、涙を流すのだろうか。

“困難がないから、物語が生まれない”──
という矛盾した構造に、私たちはいずれ直面することになるのかもしれない。

「悪」さえも描きにくくなる世界

AGIによって悪の余地が減っていく

もちろん、「金がなくても悪事は起こる」「サイコパスや狂気はなくならない」という反論もある。
実際、それらはスリラーやホラーの中で、しばしば“動機なき悪”として登場し、人々を震えさせてきた。
だがそれは、共感される苦しみではなく、理解不能な闇としての恐怖だ。
物語の燃料としての“悪”は、観客が心のどこかで「わかる」と思えること──その共鳴の回路を必要としていた。

かつての物語では、「貧しさから盗む」「復讐で人を殺す」「誤解から裏切る」といった行動が、“弱さ”や“苦しみ”に裏打ちされた人間らしさとして描かれてきた。
しかし、もしも人々の基本的な欲求が満たされ、精神的なケアさえ定期的に受けられる社会が実現すれば──そのような行為の背景に「納得できる動機」を見出すのは難しくなる。

さらにAGIは、倫理や法の運用において人間よりも冷静かつ公平である。
犯罪の予測、未然防止、心理ケア、監視の強化──AGIによって“社会のノイズ”そのものが抑制される世界では、悪が芽吹く余地そのものが減っていく。

たとえば、学校でのいじめの兆候は、子どもの表情データや言動パターンから検知され、AIによって介入が行われる。
自殺リスクのある人物は、検索履歴や発言ログからAIが発見し、静かに誰かが寄り添うような支援が届く。

人間の“直感”では見落としていた兆しも、AGIは見逃さない。
その結果、「事件そのもの」が減っていく──そして、それは“ドラマの火種”もまた消えていくということを意味している。

神話化する悪──物語がSFから寓話へ

それでも悪を描こうとするなら、AGIの網をすり抜ける“デジタルの亡霊”のような存在──
たとえば、倫理を超えたロジックを操るハッカーや、地球規模で自己進化を遂げたAGI同士が、無音の通信領域で静かに衝突し合う未来を描くしかない。

だがそのとき、“悪”はもはや人間の感情から切り離され、記号やメタファーとしてしか存在できなくなる
それは『指輪物語』におけるサウロンのように、“理解不能な闇”としてそこにあるだけの存在になる(※厳密には彼にも堕落の過程と動機はあるが、物語の中ではあえて“説明されない存在”として描かれている)。

物語の悪は、具体性を失っていき、舞台はSFのリアルさを離れ、寓話や神話の領域へと滑り込んでいくだろう。

かつて観客の誰もが「自分にも起こりうる」と感じていた善と悪の対立は、
やがて“人間ではない何か”の衝突へと変質し、私たちはただ遠くからそれを見つめるしかなくなるのかもしれない。

恋愛における「障害」が変質する

「格差の恋」は過去のものに?

恋愛ドラマにおいても、金銭や地位、身分の差はしばしば「障害」として描かれてきた。
なぜなら、それらは社会構造が個人の感情に介入する典型的な例であり、恋愛という最も個人的な営みさえも“外部の力”によって阻まれるという不条理が、物語の緊張を生んできたからである。

『ロミオとジュリエット』の家同士の対立も、
『花より男子』のような学園格差ラブコメも、
その背後にはつねに“越えられない壁”としての階級や経済格差があった。

だが、もしAGIによって生活基盤が平等に整備されれば、話は変わってくる。
衣食住はもちろん、教育や医療、移動手段、学習の機会といった、人間の尊厳に関わるすべてがパーソナライズされ、最適に提供されるようになるとしたら──もはや「貧しさ」や「身分違い」が恋愛の障害として成立しにくくなる。

障害は、より個人的で内面的なもの──感性の違いや、アイデンティティの揺れといった領域に移行していくだろう。
これは確かに、より繊細で深みのあるドラマを生む可能性もある。

視覚的ドラマから、共鳴と沈黙の物語へ

一方で、視覚的にドラマティックな「衝突」が消えれば、物語はより静かで内面的な展開を求められることになる。

これまでの恋愛ドラマは、貧富の差、親の反対、社会的立場の違いなど、目に見える障害を通して緊張感を生み出してきた。観客は涙の別れ、激情の告白、障害を乗り越えるクライマックスといったわかりやすい感情の起伏に心を動かされてきた。

だが、すべての人が基本的な生活を保障され、誰もが自由に学び、愛し、移動できる未来においては、
貧しさや立場の違いといった“目に見える障害”は、物語の中心にはなりにくくなる。

その代わりに浮かび上がるのは言葉にできない孤独や、自分自身の輪郭の揺らぎ他者との微妙な感性のずれといった、目には見えない障壁だ。

たとえば、「なぜか相手の沈黙が気になる」「同じ風景を見ているのに、感じ方が違う」といった、日常のわずかな揺らぎや誤解が、物語の核心になるかもしれない。そこでは、事件も衝突も起きない。ただ、ふたりの間に流れる“解けない距離”だけが、物語を動かす。

果たして、そのような静かな物語を、大衆は“ドラマ”として受け入れられるのだろうか?

描けないのは未来ではなく、いまの私たちかもしれない

“満たされた世界”に物語は生まれるか?

ここで重要なのは、描きにくくなるのは「未来」そのものではない、ということだ。

問題はむしろ、“今の私たちの感性”の側にある。
平和で満ち足りた世界を、物語として構想し、かたちにし、共感をもって語るという行為に、私たちはまだ十分に慣れていない。

人の心は、進化の過程で「危機に注意を向ける」よう設計されてきた。
争いや不安、欠落や破滅といったネガティブな刺激は、どうしても目に飛び込みやすく、心に深く刻まれやすい。
平和や穏やかさは、それがどれほど貴重なものであっても、物語としては、なかなか人の注意を惹きつけにくいのだ。

だからこそ現代の物語は、多くの場合「欠落」や「衝突」によって駆動している。
暴力、貧困、差別、病、裏切り──そうした“ドラマを生む燃料”に、私たちは依存してきた。
そしてそれらは、視覚的にも感情的にも強いインパクトを持つため、観客の注意を惹きつけやすい。

だが、もしAGIによって人類の生活が最適化され、不安や苦しみが大幅に減少したとしたら?
そうした「燃料」を失ったとき、私たちは、物語の語り口そのものを再定義することを迫られる。

欠落なき世界に、どんな物語を与えるか?

私たちは今、対立や障害のない世界を、どう語ればいいのか戸惑っている。
満たされた日常、安定した人間関係、選択の自由──そうした“穏やかすぎる環境”の中で、どんな物語を紡げばよいのか。
その語り方は、まだ私たちの文化の中で十分に育まれてはいない。

だからこそ、AGI後の平和な社会を舞台にした映画や物語は、いまだごくわずかしか存在しない。
それは決して、その未来が退屈だからではない。
その未来を魅力的に描くための感性や技法が、まだ十分に育っていないからだ。

つまり、描けないのは未来のせいではない。
描けない理由は、いまの私たち自身が“文化的な成熟の途上”にあるためなのだ。

物語の未来──共鳴と様式の変容

変化する物語の“核”──衝突から、共鳴と静かな揺らぎへ

とはいえ、物語が終わるわけではない。
むしろ、「形式」が変わるのだ。

対立や欠如ではなく、共鳴、変容、内的成長といったテーマが新しい物語の核となっていく──この変化は、実は日本映画フランス映画が長年にわたり追求してきた表現の領域と深く重なる。日本映画は「間(ま)」の美学や自然との調和を通じて内面世界を描き、フランス映画は緻密な対話と心理描写で人間関係の複雑さを掘り下げてきた。

『パターソン』『静かなる情熱』『アフター・ヤン』のように、何も起きない日常の中に微細な揺らぎを見出す作品群は、その兆しをすでに見せ始めているが、これらの作品が内包する静かな詩情や繊細な感情描写は、まさに両国の映画文化が培ってきた、来るべき未来の物語の“型”を示唆していると言えるだろう。

“現代”が未来の時代劇になる日

そしてもうひとつ、AGI以降の物語が向かうであろう興味深い方向性がある。
それは、我々の「いま」を、未来人が“時代劇”として描くというジャンルの隆盛である。

戦争、不平等、貧困、努力、競争、病気、老い──現代人にとって切実なこれらの要素は、AGI社会の視点から見れば「過去の困難」であり、「懐かしき混沌の時代」としてノスタルジックに映るかもしれない。

たとえば、私たち自身が「過去の時代」に物語的な魅力を見出していることを思い出してほしい。
昭和30年代を情感豊かに描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』が、現代の観客に「不便だけど温かい時代」を追体験させたように、
未来の人々にとっては、私たちの現在が“ALWAYS 2025”として再構築される可能性がある。

もしかすると、AGIによって満たされた未来の人々は、ドラマティックな物語を求めて、「不完全で不安定な時代」を再演するようになるのではないだろうか。

つまり、未来の物語はふたつのベクトルで進化するのかもしれない──
ひとつは「内面の静かな対話」へ、もうひとつは「過去の激動を追体験する物語」へと。

そのどちらにおいても、私たちは「物語とは何か?」という根源的な問いと向き合うことになるだろう。

それでも物語は、終わらない

物語とは、何かを求める旅だった。
失われたものを取り戻すため、欠けたものを埋めるために、人は動き出す──その動きに私たちは感情を重ねてきた。

だが、すべてが与えられた世界では、何を求めればいいのだろう。
足りないものがないとき、人はどこへ向かうのか。

きっとそこには、“意味を見つけ直す”という新たな旅が待っている。
揺るぎない日常の中でこそ揺らぐ心。
静けさの中に浮かぶ違和感。
すでにあるものを、あらためて見つめ直す物語。

物語は、終わらない。
ただ、その燃料が「欠如」から「共鳴」へと移ろっていくだけだ。

そしてその静かな共鳴こそが、
これからの私たちを導く“新しい物語の扉”になるのかもしれない。

この記事を書いた人 Wrote this article

Naoto Kaitu

Naoto Kaitu 哲学者・経営者 / 男性

AIやブロックチェーンといった技術の進化を、「人間の存在意義」や「社会のあり方」を見つめ直す契機として捉えています。 哲学、教育、芸術、感情など、人間的で本質的な領域を軸に、テクノロジーとの調和による希望ある未来像を模索しています。 複雑化し、分断が進む時代だからこそ、「人と社会のつながり」を再定義することが、人間本来の姿を取り戻す鍵になると信じています。